ノマクニヒコのブログ

書きたいことを書きます。

マネタイズ

お金にならないことをやる意味はあるのか。全てはお金に変わらなければならないのだろうか。

とにかくも自分の最低かかるお金がいくらななのかわからないと、いくら稼ぐべきなのかは分からない。生きていくために必要な額さえ把握出来れば、きっと不安もなくなるだろう。

貯蓄なんていう仕組みが出来て、人は蓄財をするけれども、使わないで貯めてあるお金はなんだか可哀想だなと思う。もっと流れれば、きっと大きな流れが出来るだろうな。

お金をコミュニケーションツールと捉えてみる。そうするとお金は投資ということを気軽に出来る便利なツールということになる。

しかし、現代において、お金を払った人は払ってしまえばそれで終わりで、貰った人はそれで終わりで、なんていう簡略な形になっている。払う方が責任を持たないのだ。自分の使ったお金が地球の裏側で環境破壊のために使われるということもあるかもしれない。このあたり、選挙後における、責任を持たない有権者のように思える。

まるで地域通貨のように、自分が出したお金がまた戻ってくるようなことがあったら、お金を使うのも何だか楽しくなるだろう。

我々の生活はどんどん開いて、広がっている。ブラジルの商品も買えるし、どんな国の食べ物だって食べれる。でもそういう風に使ったお金は自分のとこに戻ってくる可能性が低いと感じる。このグローバルな時代、一方で閉じていく生活も必要なんじゃないのかと思っている。生活というものを楽しむということ。人の顔や表情を直接感じるということ。誰かの手の温かみを感じること。

食べ物を誰かに獲ってもらうんじゃなくて、自分で見つけてこれたら、もっと食べ物を大切にするに違いない。料理を誰かに作ってもらうんじゃなくて、自分で作ったら、もっと真剣に味わうに違いない。細分化、分業化のおかげで効率は上がったのかもしれないが、分業化のせいで豚が殺される現場も見ないし、野菜がどんな風に出来るのかも分からない。苦労を知らないから大切にしないし、文句も言うんだろう。まるで僕らは壁で仕切られた世界にいるみたいだ。人々が他人に対して関心を寄せなくなったのは人間の本質ではなく、そのような社会システムのせいであると思う。

無関心。それこそが病魔だ。壁によって仕切られた世界をいかに渡り歩くか。

僕はその人の目をみて話したい。何かを感じたい。