ノマクニヒコのブログ

書きたいことを書きます。

自分の中に他者を住まわせる

ふわふわと死後の世界について考えてみた。

死後の世界は、だれも知らない。向こう側に行ってしまったらだれも戻ってはこないからだ。僕は、じいちゃん、ばあちゃんの記憶を鮮明に覚えている。まるで僕の中では生きているかのようだ。しかし彼らはこの世にはもういないのだ。

じいちゃんの表情、声、目つき、笑った顔。

記憶は記憶のままであり、いつまでも新しい記憶が更新されないというだけだ。

死というのは、未知ゆえに不安、恐怖、はたまた興味が湧いてくるものだと思う。

人はいろんな仮説を立てている。実は幽霊になってそこらへんにいるだとか、最後の審判があって天国か地獄にいくだとか、輪廻転生するだとか、手塚治虫火の鳥的には光になってわけわからんものに一体化するだとか。

すべて仮説に過ぎないと思う。証明する手立てがないのだから。つまり人が出来ることはただ生きるということだけだろう。

その日がもし来てしまったらもう後悔も希望もない。こちら側に身体だけを残し、命はどこかにいってしまう。

そもそもなぜ個人、自分という意識が生まれてしまったのか。自分と他者というものの分断があるからこそ死への恐怖があるように思える。自分という意識があるからこそ別れという恐怖があり、永遠に戻ってこれない穴に落ちるような恐怖があるのではないか。自分と他人というのは違うものだ。あなたと私は違うんです、と。

まるで葡萄の一粒一粒のように個人は他者と分離し、かつ少しづつ社会に、家族に、友人に、何かの物体や空間に、属しているように思える。人はほんの少しではあるが自分の居場所、面影をどこかに、何かに、残していると思うのだ。

例えば自分には幼い息子がいる。彼は自分によく似ていると言われる。彼は息子であって他者でもあるが、自分の面影やDNAを受け継いでいるのだ。人は自分のことを自分だけが占有していると思いがちだが、実はそんなことはなく、その人が歩いた道や触ったもの、交流をもったもの、そのすべてに痕跡を残している。多くのものは忘れ去られ消え去っていくが、もちろん残るものもある。自分の中にあるじいちゃんやばあちゃんの記憶のように。

息子という存在が生まれてそういう意識が強くなった。それまでは自分が一番優先であり、自分だけの利益を追求すべきだと考えていた。それはそれで間違ってないと思う。無力な個人はこの過酷な社会で決して生き抜いていけないからだ。

しかし、それをさらに超える、あまりにも弱く、かつ最高に可愛らしい子供という存在がそこに生まれたおかげで、僕は考え方を改めることにしたのだ。

自分以上に優先すべきこともある、と。

もはや自分はメインステージから降りるべき存在であり、次世代を担う人たちを育てる番なのではないかと思ったのだ。だから自分こそが社会に対してインパクトを与えられる人間だとか、自分はこんなにすごい人間なのだという次元ではなくなってしまった。

とにかくこいつを育てなければと思ったのだ。

それこそが愛なのではないかと思い、またそれこそが自分の死への恐怖を和らげる方法の一つではないかと思った。自分は自分だけのものという意識や割合を少しでも減らして、自分の中に他者の居場所を作っていく。

同時に他者の中に自分の存在を見いだすこと。それこそが人の生きる意味の一つなのかなと思った。