ノマクニヒコのブログ

書きたいことを書きます。

市場価値というものの幻想。

この前録画した日本のジレンマという番組を見ていた。

www4.nhk.or.jp

家電ベンチャーを立ち上げた中澤さん、複業スペシャリストの伊藤さん、メディアアーティストの落合さんという方が出ていた。とあるイベントで伊藤さんに会っていたのでこの番組も見ることにした。

 

その中で中澤さんが「会社を辞めた人が元の会社に戻れないのは、その人が市場価値がないからだ」という発言をしていた。

 

これはなんか違うような気がするが。

 

そもそも市場価値ってなんだろう。その人が会社に入れるかどうかっていろんな価値がマッチングした結果なんじゃないだろうか。

 

会社が個人に求める価値(労働力、能力)

 

個人が会社に求める価値(給与、福利厚生、自己実現

 

主にこの2つがマッチングした結果なのかなと思う。市場としての価値がある人ならそもそも会社になど入らずに、個人として事業を興している気がする。市場価値って普遍的に価値がある能力ってことだよね。

 

個人が会社に求めるものがあり、会社が個人に求めるものがあり、それがマッチングした結果、人は会社に勤める。

 

僕は個人としての能力の高い低いっていうのは存在しないと思っている。あるのは、その人がおかれた環境の違い、性格や趣向の違い。その作業を苦労なく続けられる才能さえあればどんな人でも上手くなる。そこまでのレベルに到達出来るほどの根気や、いい先生に巡り会おうと思ったかどうかが違うだけだと思う。

 

人の能力というものを測れるということが間違っている。おそらく長く受けてきた学校教育で点数を見せつけられてきたから、僕らはそれを測れると思っているのだと思う。80点しか取れなかった人間、40点しか取れなかった人間。能力は2分の一だろうか。そんなことはない。ただ事前準備をしなかっただけだろう。

 

個人の能力なんて努力次第で伸ばせる。問題はその伸ばせる環境を作れるかどうかだと思う。努力出来ないのは個人のせいというよりも環境のせいだろう。人は個人を責めたがる。うまく花を咲かせられなかったのは君のせいだと。それよりも土壌が大事なんじゃなかろうか。

 

会社に戻れないのは、会社が求めるものと個人がマッチングしなかった結果だろう。それならば違う選択肢を見つけられるようにするべきだと思う。それをマッチングさせる責任が個人にあるのか、会社にあるのか、はたまた国にあるのか。そういう論点の話だ。決してその人が市場価値が低いとかそういう話ではないと思う。