ノマクニヒコのブログ

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勝手に研究。シンガポールの歴史について。

つい最近南アフリカにいってきました。日本からは直行便はなくて、シンガポールを経由したんですね。チャンギ国際空港というそうです。すごい先進的な空港で、空港の中を電気電車みたいなのが通ってました。無料でWifiも使えました。

 

シンガポールに興味を持ったので、歴史について調べてみようと思いました。

 

シンガポールの概要についてはこちら 

シンガポール 概要 | 地球の歩き方

マレーシアのさきにある小さな島。面積は東京の23区分ほどしかない。マレーシアとインドネシアという2つの大国に挟まれている。

 

参考にしたのはこの本です。

 

 

 <シンガポールの歴史>

 

1,イギリスによる、シンガポールの発見

1819年、イギリス東インド会社社員、ラッフルズシンガポール島に上陸した。当時イギリスは、インドと中国を結ぶ航路の燃料補給地を探していたのだ。その島はオランダの影響下にある国王が支配していた。

 

東インド会社社員、ラッフルズは、本社の指示を仰ぐ前に、国王と勝手に契約を結んだ。毎年5000ドルのお金を払うから、シンガポール川河口付近一帯を我が社の領土とさせてくれと。

 

これはラッフルズの越権行為であったが、最後には既成事実がものをいい、イギリス東インド会社本部も承認した。1824年には新たな契約が交わされ、年間18000ドル国王に払う条件で、シンガポール全島がイギリス東インド会社の領土(イギリス植民地)になった。

 

ラッフルズがここまでシンガポールを欲したのは、その地理上の高い潜在可能性に気づいていたからである。東南アジア海域の真ん中に位置するシンガポールは、たちまちのうちにマラッカから交易拠点の地位を奪う。

 

ラッフルズは、シンガポールを東南アジアの貿易拠点として振興する政策を進めた。他の東南アジアの港の支配者が、入港税を取っていたのに対して、シンガポールをどの国の船舶でも無税で利用できる自由貿易港とする。この政策は見事に成功した。東南アジアや世界各地から交易船が集まった。

 

シンガポールに交易船が集まると、人も集まった。シンガポールの住民数は1819年の150人ほどからどんどん増えていった。マレー人、中国人、インド人、ヨーロッパ人の様々な人種が住むようになった。

 

2,第二次世界大戦における日本による占領

シンガポールは1942年から3年ほど日本が占領していたらしい。それは悲惨なものだったらしく、中国人は特に弾圧された。資金を中国本土に流していたという理由で。これを機会にシンガポール人は自分たちで国を守るというナショナリズムを芽生えさせることになる。

 

3,リー・クアンユーを中心に独立していくシンガポール

戦後間もなく普通選挙が開始されると、リーは人民行動党を作る。指導者リークァンユ始め、主要幹部はほとんどイギリス留学組だったらしい。シンガポール華人がマジョリティであったので、共産主義政党と英国留学組の内部闘争があったらしい。

 

シンガポールが英国から独立した直後、リークァンユはマレーシアとの合併を申し出る。シンガポールは東京23区ほどの広さしかなく、水や資源もないからだ。一度は合併を受け入れられるが、のちにマレーシア首相から追放される。シンガポールはマレーシアとは考え方や主要人種が違ったからだろうか。

 

シンガポールは、仕方なく独立するはめに。リークァンユは、国民に兵役を課し、隣国との連携を強め、アメリカとも仲良くする。国防を高めるためだ。人民行動党一党独裁政治が続く。投票は義務であり、しないと次の投票ができなくなる。10ドルほどの罰金を払えばできるらしい。

 

最も有能なものが国家の運営に携わるべきだという、リークァンユの考え方から、小学校の時点で選抜が行われるようになった。高校卒業時点で優秀なコースにいる生徒は、海外留学の奨学金を与えられた。留学を終えると、官僚として働いた。違約金を払えば民間で働けるらしいが申請するものはいない。

 

リー・クアンユー政権が長く続き、現在では息子のリー・シェンロンが政権を握っている。