ノマクニヒコのブログ

書きたいことを書きます。

母親の誕生日を祝う。

昨日は、実家にいって母親の誕生日を祝った。

 

母親の誕生日は、いまだに覚えている。高校の推薦入試の合格発表の日。特別な日だった。番号があったから、もう受験しなくていいやと安堵した記憶がある。

 

母親の誕生日を思い出すたびに、高校の合格発表の日を思い出す。

 

嫁さんと息子と娘、家族4人で中央線に乗る。うちから実家までは1直線だ。だいたい電車で2時間くらい。乗客で埋まっていた座席も、ぱらぱらと空いてくる。日曜日だから、乗客もストレスフリーである。うららかな天気とともに、穏やかな車内だ。通勤という儀式がなければ日本の交通機関もいいものだ。

 

電車から降りると、少し寒く感じた。雲が出てきている。こちらでは気温が少し低いのだろうか。

 

「ばば、いるかなぁ〜」

 

3歳の息子と少し会話する。息子をだっこして改札口へ向かう。

 

「ばあ!!」

 

ぎくっ。突然の声に驚いた。改札の向こうに、いきなりうちの母親がいる。息子の声が聞こえたから、隠れたらしい。うちの母親は今年で61歳らしいが、いまだにこんな感じだ。息子と会うのを、とても楽しみにしていたらしい。顔中に笑顔があふれている。会うなり息子と手をつないでスキップする。息子もばばに会えたのが嬉しいみたいだ。

 

コンビニでお菓子など買い、父親の車で実家へと向かう。父親は、あまり感情を表に出さないタイプだが、孫と会うのは好きみたいだ。自分が子供時代には見たことのない笑顔など見せる。

 

うちの実家には、パグという犬種の犬が3匹いる。パグは顔中シワだらけのブルドックのような犬だ。僕が大学生のころ、いまからおよそ10年前、母親が突然オスのパグを買ってきたのだ。ブタが好きで、もともとパグを飼いたかったらしい。目は大きく、口も大きくひらいている。鼻がふごふごいっていて、顔が可愛らしい。初めはオスだけだったが、次にメスを買ってきた。パグの子供がいつのまにか生まれた。4匹も。1匹は生まれてすぐに死んでしまったが、3匹のパグの赤ちゃんはすくすく育った。2匹は知り合いにあげて、1匹だけうちに残った。

 

うちの息子はこのパグに初めて会ったとき、猛烈に泣いた。目はぎょろっとしているし、口は大きくあいている。しかも活動的だ。すぐに飛びかかってくる。そりゃ子供には怖いよね。

 

息子を実家に連れてくるのは、今回で3回目くらいなので、息子はもう泣かなかった。

 

代わりに1歳の娘が泣いた。

 

嫁さんが床におろそうとすると猛烈に泣く。食われるかもしれないと思っているのだろうか。3匹のパグに囲まれた赤ん坊。

 

少し落ち着いたのち、車で回転寿司でも食べにいく。最近の回転寿司は、チョコレートケーキやらポテトフライなんかも回っている。レストランなのか、回転寿司なのかもはや分からない。ウェイターの仕事をベルトコンベアが代行してるものだ。

 

食後に、となりのショッピングモールを散策する。息子が、ばばに行きたいとせがんだらしい。そこにあった31アイスクリームで、アイスケーキを買う。アイスクリーム屋ではケーキも売っているんだね。アナと雪の女王。ディズニーにお金払って開発したケーキだろうか。キャラクタービジネスは、こういうところがデカい。

 

ケーキを買って家に戻る。相変わらず下の子はパグを恐れている。

 

アイスケーキにロウソクを立てて誕生日を祝う。振り返ってみると親の誕生日をこんなふうに祝うのは何年ぶりだろう。自分は何度も祝ってもらった気がするが、親の誕生日は祝った記憶がそれほどない。男兄弟の家なんてこんなものだろうか。

 

お茶を飲んでいると、母親がアルバムを持ってきた。くにひこのアルバムと書いてある。とても古ぼけたアルバムだ。ところどころにしみがある。真ん中に絵で描かれた女の子の顔があった。

 

開いてみると、赤ちゃんの写真があった。S60,7.31。僕が生まれたときの写真。親は僕の写真を大切にとっておいてくれていた。

 

不思議なことに、僕はうちの子にそっくりだった。特に1歳の娘にそっくりだ。写真のなかの年齢と同じくらいだからだろうか。

 

もしもタイムマシンで過去に戻って、僕を連れてきたとしても、僕は何の違和感もなく自分を育てるかもしれない。それくらい赤ちゃんのころの自分と娘が似ている。

 

遺伝というものはおそろしいものだ。

 

僕らは帰途についた。

 

母親は、今回の訪問を喜んでくれたらしく、夜に電話をよこしてきた。ありがとうと言っていた。

 

遠く離れていても家族はつながっている。生まれた場所から離れても、結婚しても、子供が生まれても、家族はつながっている。

子供がいてくれてよかった。

子供が生まれてから、子供がかわいいと思えるようになった。

 

いま我が家では、3歳の男の子と1歳の女の子がいる。

 

長男は戦隊モノが好きみたい。水道橋でやっているヒーローショーには二回くらいいった。ストーリーはほとんどない。いきなり戦いが始まり、最悪の敵にやられそうになるが、最後にはみんなの応援でヒーローが再び立ち上がる。

 

なんで同じ展開?笑

 

昨日急に下の子が歩きだした。それまではハイハイするのが好きみたいで、自分から歩こうとはしなかった。立ち上がることすらしなかったのだ。

 

それが急に立ち上がり、歩き出した。足を肩幅くらいにひらいて、腕と足を同時に出している。あまり安定感はなさそうだ。ハイハイとは眺めが違うからだろうか、立って歩いてるだけで楽しそうだ。歩けるだけで笑顔になるなんて。

 

人間は、出来なかったことが出来るようになるだけで楽しくなってしまうのだ。

 

子供がいてくれて本当によかった。親として責任は重いけれども、毎日が刺激的になる。

 

大人ばかりに囲まれて仕事しすぎると、こういう小さな存在に気づくことがなくなる。

 

歩けるのは当たり前だし、食べ物はきれいに自分で食べれるし、服も自分で着ることができる。そんな当たり前のことが1歳の子供には当たり前ではない。大人が助けてあげなければならない。

 

社会というのは多種多様な人たちで構成されているのだ。小さい子供もいれば、老人もいる。男もいれば、女もいる。

 

仕事ばかりしていたら、他人のことが理解できなくなる。どういう気持ちで暮らしているか、どういうものが好きなのかわからなくなる。どういうことができて、どういうことができないのか、わからなくなる。自分のことしか考えられなくなる。想像力がなくなる。

 

仕事ばかりして、家庭をかえりみない生活には反対だ。

 

 

遠藤周作さんの沈黙。本と映画を読んで。

いつも読んでいる英字新聞Japan times STに、映画監督のマーティン・スコセッシさんのインタビューがのっていました。

 

なんでも今度、遠藤周作さんの「沈黙」という作品を映画化するらしいです。

 

いろいろ調べてみると「Go」や「ピンポン」で有名な窪塚さんが出る映画らしい。

 

これは面白そうだと思って、原作本をキンドルで買いました。

 

 

いまから二日前、1月30日のことです。

 

初日で40%ぐらい読んでしまいました。これは面白い。

 

あらすじを簡単にいいます。

 

徳川家光時代の日本が舞台。1613年、禁教令によりキリスト教が禁教になる。キリスト教は邪教とされ、信者は弾圧を受ける。そんななか、父と慕うフェレイラ神父が、キリスト教を棄てたと知らせを受ける。その知らせを受け、ポルトガルから2人の若い宣教師が日本に向かうことになる。

 

その2人の宣教師の運命やいかに。

 

という内容です。

 

映画はこちら。

 

chinmoku.jp

 

詳しい内容は触れないのですが、まぁ拷問シーンの多いこと。ちょっと気分悪くなりますね。拷問にもいろいろと種類があって、海辺で張り付けにされたり、穴に向かって逆さ吊りにされたり。よくもまあそんなこと考えるもんです。

 

奉行さんもあんまり気持ちがよくないのか、「こんなことはやる必要のないことだと思っている」っていってますからね。「形式だけでいいから、絵を踏めばいい」なんて言ってる人もいました。

 

それでもキリシタンたちは最後まで棄教しなかったりするわけです。

 

「こんなに苦しんでいる人たちがいるのに、神はなぜ黙っているのか」

 

主人公の宣教師、ロドリゲスは語ります。

 

それこそが沈黙っていうタイトルのゆえんですね。

 

政府が決めた方針なんですから、従っている人たちも仕方なしに弾圧しているんでしょうが、見ているほうとしてはなかなか気分のいいものではありません。

 

映画よりも本のほうがよかったですね。

 

 

 

海のイメージ。

嫁さんがスタンフォード大のオンラインエッセイ講座を受けている。

 

生徒がエッセイを書き、それを添削したり評価したりするらしい。

 

ある生徒が、死んだ母親を海の話になぞらえて書いたらしい。お母さんが海が好きだったのかな。

 

そんなに詳しい話はしていなかったんだけど、海の話が出てきたもんだから、思わず海が頭に浮かんだ。

 

 

 

 

ゴミひとつ落ちてないきれいな砂浜

 

そこには、だれもいない。

 

白い波が砂浜に静かにうちつける。

 

ざざん、すう。ざざーん、すう。

 

波は戻る。

 

また浜にうちつける。

 

ただそれをくりかえすだけ。

 

 

 

そのイメージが浮かんだ瞬間、なんか泣けてきた。

 

おいおい。おれ最近海いってねぇなって。

 

仕事とかさ、家庭とかさ、いろいろ忙しくてさ、経済新聞なんか読んじゃってさ、ニーチェの哲学とか小難しい本読んじゃって。

 

まさしく忙殺されてた。頭の中まで忙しくなってた。

 

時間は守らないといけない。まじめに仕事はしなくちゃいけない。遅れちゃいけない。儲けなくちゃいけない。誰かに褒められないといけない。誰かにけなされちゃいけない。

 

自分を縛るその全てが、自分を窮屈にする。

 

海のイメージはそのすべてを解き放ってくれた。

 

まあつまりあれですわ。疲れてるんだわ。

 

 

 

 

イベントスペース借りて、アルゼンチンタンゴの公演会やりまーす。誰かきませんか。

去年うちに泊まった、アルゼンチンのバンドネオン奏者の方が、また日本に来日するそうです!!

 

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去年うちに泊まったときには、一緒に寿司を作ったり、バンドネオンを演奏してもらったり、イラストレーターの友達に絵を描いてもらったり、盛りだくさんなイベントになりました。

 

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演奏動画

www.youtube.com

 

しかも、今度はソロではなく、ギタリストとシンガーも連れてくるとのこと。

 

 <3月4日には雑司が谷でライブするみたい>

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<演奏動画>

www.youtube.com

 

バンドネオンやタンゴってあまり聞かないので、とても新鮮ですね。なんでしょう、この異国感。まるで映画の世界ですよね。アルゼンチンなんて、どれだけ日本から離れていることか。これが生で聞けるのかと思うとなんだかワクワクしています。

 

前回と同じくうちを使って、小規模にやってもいいですが、三人となると明らかに狭いので、イベントスペースを借りることにしました。

 

空の杜(くうのもり)さん。

JR小岩駅徒歩16分、京成小岩駅から徒歩5分。

空の杜 ~kuu no mori~

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(ホームページより借用)

 

おしゃれですねー。なぜこの場所を選んだかというと、この近くのシェアハウスに2年ほど住んでいたからです。このサミットよく使ってました。

 

 

イベント概要

アルゼンチンタンゴを聞いて、みんなでおしゃべりしよう。

 

日時 3月5日(日)13時から3時間(途中入場、退場OK)

場所 空の杜。東京都葛飾区鎌倉1-11-13

会費 大人1人につき 1000円 (飲み物と簡単なつまみ用意します)

 

演奏予定時間は90分の予定ですが、小規模なイベントなので変更することもあります。演奏の合間のMCは、うちの嫁さんに日本語訳してもらおうと思ってます。

 

お子さんがいる方も遠慮せずに遊びにきてください。うちも子供連れていく予定です。よろしくおねがいします。

 

参加したいかたは、僕にメッセージをしてもらうか、nomakunihiko9289@gmail.com までメールください。

 

 

大人になっても学びつづけたい。

子供に「将来の夢はなんですか」と聞くのはナンセンスな質問だと思う。

 

野球選手になりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか、みんな憧れだけで、イメージだけで夢を語る。

 

実際その夢を叶えた人はどれくらいいるだろう。

 

「この仕事をするのが子供のころからの夢だったんです!」

 

学生時代から付き合って、そのまま結婚したカップルぐらい珍しいことだと思う。

 

多くの人は夢を忘れ、現実的な仕事に就く。自分でもやれそうなこと。採用してくれた会社の仕事。

 

僕は夢を持つのを批判したいのではない。

 

夢は憧れ。何かに憧れるのは、そのことに興味関心があるからだと思う。何かに興味や関心を持つことは、とても大事なことだと思う。

 

なぜなら、興味や関心があるということは、行動のきっかけになるからだ。

 

「あれは面白そうだ」

 

「どうしてこうなるの?」

 

そういった興味や関心があれば、もっと調べてみたいと思うし、自分でもやってみたいと思う。学びの原点だと思う。

 

そして、興味、関心こそ「やりたいこと」の出発点だ。

 

やりたいことは、そのときの興味や関心によって変化する。

 

夢をもつことに必死になるのではなく、興味関心をもつことに必死になったほうがいい。学校に行くより自発的に学ぶことができる。自発的な学びのほうが、吸収率も明らかに高い。

 

大人になると、打算的なところも増えてくる。時代の流れとか、世間のニーズとかを意識する。それも大事だと思う。パトロンでもつかない限り、自分だけが興味、関心があることをやるのは難しい。社会が求めるもの、流行ってるものに自分の能力を寄せていく必要もある。

 

生きるためには、相手が必要なものを提供してお金を得る必要があるからだ。

 

アリを観察するのが好きで、ずっと観ていたいと思う人がいたとしても、誰かがお金を出さなければ研究は継続的にできない。生活の役に立つものを発見できたり、大学が雇ってくれるなりしないと、生活ができない。ある程度は自分の好きなことをぐにゃりと曲げて、世間に寄せていかないといけない。

 

時代の流れ、ニーズというものをつかみつつ、じゃあ自分は何ができるだろうということを考えていかないといけない。

 

ニーズがあるものを売るのと、ニーズがないものを売るのでは、必要な労力も異なる。明らかにニーズがあるものを売るほうが楽だ。こっちが努力しなくても売れるんだもん。売れないものをどう売るかみたいな議論もあるけど、売れるものを売ったほうがいいよね。

 

それをマーケティングっていうのかもしれない。

 

でも、子供のうち、学生のうちは、社会のニーズなんか関係なく好きなことができる。

 

親が金を出してくれるから。これってすごいことだ。だから学生のうちは、自分の興味があること、関心のあることを継続的にやってみるのがいいんじゃないだろうか。大人になったら、それをどう活かせば自分の生計が成り立つか考えてみる。

 

と、ここまで正論をかいてみたが、

 

大人になっても、好きなことが見つかったらやってみるのがいいと思う。学生に戻るのだ。

 

なんで大人は学生になれないの?

 

海外では社会人になって大学に入り直したりする人もいるらしい。

 

大人が学生になってもいいんじゃないの?お金を稼ぐことも大事だけど、自分に必要なスキルや知恵を得ることも大事だろう。

 

大人になっても継続的に興味、関心を持ち、学び続けること、行動していくことは大事なことだと思う。

 

 

 

 

早くしろと急かしてくる人の意見は聞く必要なし。

先日嫁さんから聞いた話。

 

駅から自宅までバスに乗ったそうです。バスが止まってから、席を立って降りようとしたところ、乗客の一人から「早くしろよ」と悪態をつかれたそうです。

 

聞いたときには「ひどいことをいう人がいるな」とだけ思っていたんですが、よくよく考えるとやはりひどい話です。

 

こういう「早くしろよ」と要求してくる人って仕事でも、他の場所でも、ちらほら見かけますね。スーパーのレジとか、電車が動かなくなったときとか。

 

これ、真に受ける必要全くないと思います。

 

例えば、もしその人のいう通り、急いだとします。急げる範囲ならもちろん急ぐのでしょうが、同時にミスや事故を生み出す原因になります。

 

例えばバスを降りる際の話。

 

いつも使っている京成バスでは、「バスを降りる際には、バスが止まってから席をお立ちください」とアナウンスで流れます。車内事故を防止するためです。

 

実際、僕は、バスが動いているときに席を立ち、バスが急発進したためにバランスを崩して後頭部をドアに打ちつけた御老人を見ました。しっかりバスが止まってから席を立たないと危ないです。

 

「早くしろよ」と悪態をついた人は、もしこのような事故が起きて、嫁さんが怪我したときに責任を取るのでしょうか。たぶん取らないでしょう。

 

百歩譲って悪態をつく人を擁護するならば、その発言によって起きた事故やミスについて、その人が最後まできっちり責任を負ってくれるならいいんじゃないかなと思うんですよね。

 

そんなことは100パーセント起こらないわけです。言うだけ言っておしまい。

 

一番大事なのは、急ぐことではなく、事故が起こらないこと、ミスが起こらないこと。

 

早くしろよと悪態をつく人の意見は全く真に受ける必要はないですわね。