ノマクニヒコのブログ

書きたいことを書きます。

誰かのための仕事

僕は飲食店で働いています。

 

休憩時間を抜いて10時間ほど毎日働いていると思います。

 

不思議と働いているときは退屈しません。

 

それは、誰かのために働いていることを実感できるからかもしれません。

 

飲食店に来る人は、お腹がすいている人たちです。彼らは、空腹という不満を抱えて入店します。そんな不満を抱えた人たちを、僕は満足させるために仕事をするのです。美味しいご飯を作るという仕事です。

 

仕事というのは、時間も労力もかかるものですが、相手が満足してくれたら、とても救われた気持ちになります。自分がここにいる意味があったなと思います。自己満足だけでなく、他人を満足させる。それがいい仕事だと思います。

幸せになる方法を考える重要性

人は、それぞれ、幸せになる方法を考えるべきだと思う。なぜなら自分が幸せになったら、他人にも幸せを分けれると思うからだ。

 

全員が幸せになるためには、まず自分が幸せにならないといけない。

 

僕は、幸せ=満足だと考える。

 

人それぞれ、どうしたら満足するか違う。もちろん同じこともある。

 

衣食住。

 

これらは生きていく上で必要不可欠だ。ごはんは食べないと死んでしまう。寒い国では、洋服着ないと寒くてやばい。住まいがないと不快でやばい。

 

だからこれらに関係する産業はなくならない。アパレル、建築、外食産業。

 

もし将来、ドラゴンボールの仙豆的な食品が開発されて、これだけ食べれば一日中大丈夫みたいなことになったら、外食産業、スーパーマーケット業界は潰れるかもしれない。

 

いかに自分が幸せを感じるか。それを探す旅が人生であり、生き方ではなかろうか。

人を助けるということ。

今日出勤中のこと。駅の階段を登っていこうとしたときのことです。

 

僕の目の前で、手すりにつかまりながら、杖をついて登っている男性がいました。僕が隣まで近づいたときに、その人の杖が階段の段差に引っかかりました。杖が転んで、バランスが崩れ、その人は転びそうになりました。

 

僕はとっさの判断で、その人の腕を掴んで、身体を支えてあげました。そのまま放っておいたら転びそうだったからです。

 

その人は結果的に転ぶことはなかったです。

 

僕は「大丈夫ですか?」と声かけしたあとに、足早に去りました。

 

大人に対する手助けというのは、この程度でいい気がします。その人のキャパを超えそうなときに手を差し伸べる。

 

人助けは難しいと思います。良かれと思ってしたことが、その人にとってみたら、ありがた迷惑になる可能性もあります。その人が本当に困っているのか、助けてほしいのか、よく見極める必要があると思います。

息子の成長を垣間見た瞬間。

うちの息子は今年の夏で5歳になり、娘は3歳になります。これぐらいの年齢になると、普通に会話ができます。

 

息子を見ていると、本当に大きくなったなと思います。

 

僕は、彼が生まれる瞬間に立ち会っています。陣痛が始まって5時間後くらいでしょうか。なかなか出てこないので、掃除機みたいな機械で、頭を引っ張られて出てきました。その瞬間響き渡る泣き声。

 

「うおお、すげえ!産まれてきた!」

 

などと感嘆したものです。

 

あんなに小さかった息子がここまで大きくなるなんなんて。

 

目鼻立ち、体格。あらゆるところをつぶさに見ていると、まるで赤ちゃんにビッグライトを当てたかのように成長してきました。顔つきなどは、小さいころから変わっていないようです。彼はこのまま大きくなっていくでしょう。

 

外見だけでなく、中身もほとんど変わっていないように思えます。小さいころから細かいことにこだわって、自分なりに納得できるやり方でないと駄々をこねます。

 

そんな息子の性格を僕は知っているので、彼がワガママを言い出すと、僕は諦めています。どうせ何を言っても諦めないだろうな、と。

 

しかし、そんな彼もついに成長が見られるようになってきたのです。自分の欲望をコントロールして、約束を守れるようになってきたのです。

 

先日の日曜日の話です。

 

僕は、近くのスーパー銭湯に行くことを日課にしています。

 

息子は、そこにいくと、ガチャガチャをやったり、ジュースを飲んだりします。僕たちは、前日にもスーパー銭湯に行っていて、さすがに今回は諦めてほしいなと思いました。

 

嫁さんが息子に、「昨日も買ったから、今日はガチャガチャもジュースもなしよ」というと、

 

息子はその約束に納得したのです。

 

これには驚きました。僕は彼が決して諦めない人間だと知っていたからです。我慢することをいつのまにか覚えている!

 

待合室で嫁さんがお風呂から上がってくるのを待つ間、息子が誘惑に負けそうになっていました。

 

「ねえパパ、ジュース飲みたい」

 

「今日は我慢しようね」と諭すと、なんと納得してくれました。

 

息子よ、いつのまにか成長したのか。もう君は、2歳のころの君ではない。

 

保育園のおかげか、嫁さんのおかげか。

 

 

 

 

大切な人との思い出こそ最高の価値がある。

Time is money.

 

「時は金なり」

 

という言葉があります。

 

時間は、お金と同等か、それ以上の価値があるという意味でも使われるでしょう。

 

ぼくは、「時間」こそ価値ある存在だと思います。

 

なぜなら、時間というものは無くなってしまったら戻すことはできないし、増やすこともできないからです。

 

川に流されるボートのように。

 

僕はただ、浮かんでいるのです。

 

いつかぼくも年老いていきます。もう二度と高校生には戻れないし、小学生にもなりません。ドラえもんのタイムマシンはいまだに開発されていません。

 

「時を戻すことはできない」

 

その一点において、時間こそ価値ある存在なのだと考えます。

 

また、僕は自分一人でいる時間が価値があるとは考えません。

 

自分にとって大切な人と過ごす時間こそ、最も価値あるものだと考えます。

 

そこには愛情があるし、とてもかけがえのないものだからです。思い出もたくさんできます。

 

有限なる時間制限のなか、僕と一緒に過ごしてくれているあなた。そして子供たち。

 

家はただの物体ですが、大切な人と過ごすことによって思い出が生まれます。

 

バタバタと家中を駆け回っていた息子。椅子に座ってギターを弾いていたあなた。静かに人形遊びをしていた娘。

 

すべてかけがえのない思い出です。いくらお金を払っても、もう二度と返ってきません。

 

これからもたくさんの思い出を作りたいなと思います。

株をやり始めて数ヶ月がたちました。

株をやりはじめて数ヶ月たちました。

 

感想を申し上げます。

 

株は難しい。そして面白い。

 

株は、全く自分の予想通りになりません。

 

例えば、とある会社の利益が何パーセント上がったという決算報告があったとします。普通に考えれば、翌日、その会社の株価は上がるはずです。

 

でも、そうならない場合が多々あるのです。むしろ素直に上がるほうが少ないかもしれません。急激に下がったりもします。

 

もちろん、利益が少なくなりましたーという報道が出たら、大抵株価は下がります。そこから急激に上がる株価をいまだに見たことがありません。

 

つまり、決算から株価を予想することが困難なのです。

 

むしろ、新しい技術が開発されましたーとか、どこそこの会社を買収しましたーとか、自社で自分たちの株を買いますーとか、そういった好感触なニュースで株価が上がることが多いようです。

 

株価は期待値であがるようです。

 

機械が売買する手法もあるようですが、大抵は人間が株を売買します。株価に人間心理が現れるんですね。

 

株のゴールはいったいなんなのでしょう。それすらも人によりけりなのかもしれません。

 

短期的な利益を得たいのならば、売買を頻繁に繰り返す必要があります。株価が安い時に買って、高くなったら売ってしまうのです。このやり方の難しいところは、売買タイミングの決定です。

 

いったいどこが安い値段なのか。つまり、どの値段で買うのか。

 

そして、どの値段で売るのか。つまり、どこが高値なのか。

 

それが難しい。買った株が、急に下がりだして頭を抱えるという話もありますし、もうこれ以上は上がらないだろうと思った株価が、また上がり出す。そんなこともあります。

 

右肩あがりに株価が上がってくれたらいいのに。そんな単純な話ではありません。株価は波打つように、上にいったり下にいったりするのです。

 

僕の最近出した結論としては、売買を頻繁に繰り返す手法は、自分には合わない、ということです。というのも自分は専業で株の売買をやっているわけではないからです。平日の午前9時から、午後3時まで、ずっと画面を見ていられるわけではありません。

 

それを考えると、長期的な視点を持つことが大事かなと思います。

 

株価をみるというよりも、会社の事業であったり、期待であったり。配当であったり。そういうもので投資を行うべきかなと思います。

 

まだまだ研究していきたいと思います。

 

 

 

 

僕は、ごはんを食べることが好きだ。

僕は、ごはんを食べることが好きだ。

 

ごはんは、食べる直前から盛り上がっていく。食べているときが一番幸せになる。お腹がどんどん満たされていく。何かを味わう喜び。たまらない幸福感だ。

 

しかし。

 

すべて食べてしまったら終わってしまう。もう、おなかは満たされて、食べることはできない。無理をすれば何かを食べれるのかもしれないけれど、さきほどほどの幸福感は得られない。

 

これは、僕の消費活動である。食べ物は消費される。食べ物は体の中で消化され、エネルギーになって、やがて体から排出される。

 

そうそう。

 

うん。

 

でも、結局排出されるなら、なんのために食べたんだろう。A定食を食べること。カップラーメンを食べること。ジェノベーゼパスタを食べること。どれもすべてお腹が満たされる。お腹が満たされるのなら、いったいなにが違うっていうのか。

 

違うもの。それは記憶。感覚。交換可能ではないもの。

 

A定食もカップラーメンも、ジェノベーゼパスタも、全部味が違う。体に与えられる信号が違う。

 

単なる消費活動をするのではなく、思い出に刻まれる食事、毎日を過ごしていけたら最高なことでしょう。